衝撃から30年。いま考える。
今回は1991年公開のサイコ・スリラーの名作「羊たちの沈黙」をレビュー・考察しマス。
筆者評価は★4.3
主演:アンソニー・ホプキンス/ジョディ・フォスター
「ハンニバル・レクター博士」といえば、映画好きな人でなくても多くの人が知っているものでしょう。
人を殺してはその肉を食うという、「人」からかけ離れた犯行を行う男です。
「シリアル・キラー」にあたる犯罪者で、地下深くに投獄されています。
公開直後は社会現象を巻き起こすほどの衝撃でした。
1991年当時、スマートフォンなどはもちろんありませんでした。SNSもありません。
今はなんでもあります。当時と比べて、全くと言っていいほど世界は変わりました。
現代における「レクター博士」はどのように姿を変えるでしょうか。
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なぜ、「名作」なのか
羊たちの沈黙の大まかなストーリーは、意外に単純。
サイコパスの犯罪者に、サイコパス犯罪の心理を聞き出すことで協力を仰ぐというもの。
レクター博士が脱獄してしまうものの、無事に事件は解決します。
意外と裏切りがあるわけでもなく、ひねりがあるわけでもありません。
何が本作を「名作」たらしめているのでしょうか。
それは、圧倒的な主人公ら2人の「キャラクター造形」とその間に作られていく「関係」です。
食人殺人鬼と美人新人FBI捜査官という相対する関係のキャラクターでありながら、同じ「グレー」の美しい目でお互いを見つめ合い、対話を広げます。
その対話は、FBI捜査官と囚人という関係性でありながら、主導権を囚人側が持っています。
きっと独房から出ていないはずなのに、別の場所にいてもなんとなく「レクター博士」の目線を感じます。
なんでも見通すあの目を、観客もクラリスも忘れられません。
そして、これだけ残虐で非道な犯罪者なのに、なぜか「クラリスには手を出さないような気がする」という印象を受けるのも素晴らしい。
この、奇妙な関係。友情とも、愛とも、因縁ともいえない、言葉にできない絶妙な「つながり」こそが本作を名作たらしめる最大の要因です。
そして、この2人を演じる上で、アンソニー・ホプキンスとジョディ・フォスターは映画史上最もと言っていいほどの「ハマり役」だったと言えるでしょう。
ジョディ・フォスターの正義・若さ・美しさ・清廉・過去。それら全てを兼ね備えた容姿と瞳は、本作のグレードを2つ、3つと押し上げている圧倒的な要因です。
社会の何がレクター博士を表すか
映画公開当時、「現代アメリカ社会における新犯罪」という大テーマがある上で、「理解できないもの」として、人食い殺人や、人間の肌でドレスを作る殺人などが取り上げられました。
これは「ノー・カントリー」のシガーにも通じる、「理解できない犯罪者」のアイコンとして機能しています。
2022年現在、もちろん人間を食す犯罪者や、人の肌でドレスを作るような犯罪者は今でも「異常で理解ができない」存在です。
しかし、この「理解できない」という意味が変わってくるのかもしれません。
昨今よく映画で扱われる犯罪者像は、犯行後SNS等で声明を出したり、政治介入したりしようとします。そもそも動画の再生回数稼ぎのためだったり。
犯行の動機が「外部」にあることが多いです。これは個人個人がSNSによって社会の目に常にさらされる存在になっているため。
それに対して、レクターやビルの犯行は究極なまでに「個の内面」に依存しています。だからこそ外部に理解されません。
「人を食べたい」という欲求。「女性の皮膚を纏いたい」という欲求。
外部の評価や、動きを完全に無視した究極の個人化こそが、この「羊たちの沈黙」で描かれています。
現代において「レクター博士」を考えるとき、それはSNS社会に表出してこない社会の闇・裏側の塊と捉えることができます。
美しい清流のそばにある岩をひっくり返せば、途端にムカデやミミズが蠢いています。
SNSではみんなが美しい清流になろうと務めます。「映える」とはそういうこと。
いわばこの社会で、ムカデであり続ける、アンチテーゼこそ「レクター博士」なのです。
ビルへの視線の変化
ビルは、性転換手術を断られ、「女性になる」ことができなかったことをきっかけに、女性を殺害してはその肌を切り取り、ドレスを作ろうとする猟奇殺人鬼です。
1991年当時の評価は、どうだったでしょうか。
きっと「頭のおかしいオカマ野郎」という評価がいいところでしょう。
「男なのに女になりたいという願望を持ち、その願望が満たされなかったことを外部に押し付ける最低な犯罪者」。
あれから30年たち、昨今ではLGBTQへの理解が叫ばれ、多様化が叫ばれています。
今もし本作が公開されていたら「社会からいじめを受けた、かわいそうな性同一性障害の持ち主」に見えるかもしれません。
なんにせよ公開当時よりも、ビルの動機を理解しやすくなっているのは間違い無いです。
「自分が女になりたいという欲望が砕かれただけで人を殺すなんて…」
もちろん、なんの罪もない女性を無差別に殺害することは、非道です。
しかし、我々が社会に属し、その社会が「ビル」の「女性になりたい」という願いを砕き、差別したという点では、我々は等しく「罪」を背負うべきなのかもしれないですよね。
そう言った意味で、本作で最も下劣で、罰せられるべきなのはクラリスに自分の精液を放り投げた「ミルズ」かもしれません。
まとめ
今回は「羊たちの沈黙」を考えてみまシタ。
不朽の名作は、常にそのメッセージが色褪せないことによって産まれます。
「最先端の映像だったから」「流行りを取り込んだから」では、その映画の命は短く、浅いものになってしまいます。
1991年に公開された映画でありながら、現代においても強いメッセージ性が色褪せない本作は間違いなく名作と言えるでしょう。
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