問題提起と本質を突いた「問題作」
今回は1996年公開の「評決のとき(a time to kill)」をレビューしマス。
筆者評価★4.4
主演:マシュー・マコノヒー
監督:ジョエル・シュマッカー
人種問題をテーマの中心に置きつつ、「法のもとの平等」への懐疑と、真のリベラルとは何かについて考えさせる傑作。
「問題作」としたのは、いくつかきちんと踏まえておかないとならないポイントがあるためです。
あと、若かりしマシュー・マコノヒーのかっこよさが素晴らしいです。
ざっくりあらすじ(ネタバレ)
ある日、ミシシッピ州の小さな町で、お使いに出ていた10歳の黒人の少女が帰路についていました。
後ろから南軍旗のステッカーを貼ったトラックが近寄ります。
2人の白人の男性は、女の子にビール缶を投げつけ、殴り、縛り上げ、強姦しました。
女の子はパパ!と叫びますが、誰も助けに来ませんでした。
少女の父親カールに連絡がきます。カールは急いで土木現場から帰宅。
そこには変わり果てた姿の娘がいました。娘は一命を取り止めました。
犯人の白人2人は逮捕されました。
カールは、かつて自分の弁護をしてくれた白人弁護士ジェイクに会いに行きます。
「もし、俺が面倒なことになったら、弁護してくれるか?」
「もちろん。だけど面倒なことって?」とジェイクが聞きますが、教えてくれませんでした。
後日、刑務所から裁判所へ移動した白人2人組。階段を登る2人の後ろから、マシンガンを持った男が突撃してきます。それはカールでした。
カールはこの2人を射殺。その際、2人を誘導していた警官も撃ってしまいます。
これによりカールは逮捕され、裁判に。
弁護はジェイクが務めることになります。
KKKからの殺人未遂なども絡み、この裁判は街全体の黒人・白人の論争へと繋がっていきます。
ジェイクは周囲の人物が次々危険に晒され、時には亡くしてしまってもカールの裁判を降りませんでした。
裁判は検察側優勢のまま為すすべなく進んでいきます。
最終弁論を前にして、ジェイクはカールに、死刑を免れるため司法取引で終身刑で手を打とうと提案します。
しかしカールは「お前は、白人で、結局頭の中は白人なんだ。リベラルを語っていても、俺を人間としてではなく黒人として見ている。お前の娘と、うちの娘が共に過ごすか?過ごさないよな。だからこそお前を選んだ。陪審員の白人たちと同じ立場で、どうしたら俺を無罪にするか。それを考えてくれ」と言います。
ジェイクはこれを受けて、最終弁論に向かいます。
ジェイクの最終弁論ののち、判決が出ます。判決は「無罪」でした。
カールは子供たちの元へ帰ります。おかえりなさいパーティーをしていると、そこへジェイク一家が。
ジェイクの娘と、カールの娘が「初めまして」と挨拶をするのでした。
圧巻の最終弁論シーン「白人でした」
涙が勝手に溢れてくる、圧倒的な最終弁論シーン。
悲しみ・痛み・感動など言葉にできない感情が、涙となって溢れてきます。
「物語を話します。目を閉じて想像してください。
小さな女の子が、買い物を抱えて家路を急いでいました。
突然トラックが追ってきて、2人の男が降りてきて、彼女を引きずり、縛り上げ、服を剥ぎ取って、押し倒した。
1人が終わると次。彼女をレイプした。
乱暴に犯して、無垢な少女を汚した。
酒臭い息と、汗の匂い。
少女の、小さな子宮の命は奪われ、生命を受け継ぐ子供を産むことはできない。
男たちは彼女を的にして、ビールの缶を投げつけ始めた。
缶によって、彼女の肌は、骨に達するまで裂けた。
小便もかけた。
次は吊るし首にした。
ロープで、輪を作り、少女の首にかけて締めた。乱暴にロープは引かれ、少女の足は地面を求めたが、宙を蹴る。
だが木の枝が細かったので、ポキンと折れ、少女は地面に落ちた。
男たちは、少女を車で運び、川にかかる橋から放り投げた。
見えますか?
レイプされ、殴られ、傷だらけ。男たちの小便と、精液にまみれ、血にまみれ、死を待つ少女。
見えますか?
想像してください。
その少女は
その少女は、白人でした。
以上です。
最終弁論シーンより
セリフを書き起こしている途中でも、また涙が溢れました。
実際にこの被害に遭ったのは、カールの娘ターニャですから、黒人の少女です。
しかし、ジェイクは「物語を話します」から始め、最後に「その女の子は白人でした」で涙ながらに締めくくりました。
これは、「黒人少女に起きた可哀想な出来事と、その黒人の父親による往復行為」という視点で事件を判断している人々に対するメッセージです。
これは、全ての人が該当します。白人の人々はもちろんのこと、黒人に対してもそうです。
法の下の平等を考える上で、本当の意味で平等となるためには、この事件が白人の当事者意識を持つことが欠かせません。
「白人でした」のひとことで、10歳の何も知らない、何の罪もない少女が犯されたという事実が強くのしかかります。
そしてこの発言にはもう一つの意味があります。
それは、ジェイク自身の「もしも自分の娘に同じことが起きていたら」という思いです。
ジェイクには同じくらいの娘「ハンナ」がいます。
ハンナは、彼の全てです。
彼は、「もしハンナが同じことをされていたら、カールと同じ行動(犯人への報復・殺害)をしていた」と言っていました。
犯行前に、カールが会いにきたとき、「カールはおそらくあの二人を殺すだろう」とわかっていました。
しかし、ジェイクは止めませんでした。それどころか「そうなってほしい」とさえ望みました。
だからこそ、この裁判に勝つことは「自身の無罪を勝ち取ること」と同義であり、そしてカールの娘ターニャは、ハンナなのです。
無垢で天使のような寝顔を見て、ジェイクはこの裁判から逃げないと決意したのです。
本作は人種問題を取り扱っており、「黒人を弁護することをやめない主人公」という点で、人種差別に反抗する存在として誤認されるところがあります。
低評価レビューを見ると、これが目立ちます。「結局は自分のことしか考えてない!」とか。
そうではないのです。ジェイクは、父であり続け、自身とハンナのため、裁判を続けたのです。
問題点
この映画が抱える問題点の最たるものとして、「殺人」が無罪になっているということ。
2名の命をマシンガンで奪っておきながら、無罪放免になっているというところにはかなり問題があると言えます。
完全に法が崩壊しています。
どんな理由があっても、殺人をしてしまっては社会は存続できません。
死刑・終身刑は免れるとしても、数十年は刑務所に入るべきだったでしょう。
論点はむしろカールの行いは「間違っていたのか」というところにあるでしょう。
愛する、幼い無垢な娘を、ゴミクズ同然に扱われ、傷つけられ、犯された。
もし自分の大切な存在がそのようにされたら、誰でも相手を同じ目に遭わせたいと思います。
法的には、「有罪」行為であっても、カールの中に芽生えた感情には何も間違いはありません。
この、カールは間違っていない。という結論を「無罪判決」以外で表現できればbestだったかもしれません。
ミッキーマウスは誰?
本作の謎として議論を呼んでいるのは「ミッキーマウス」のタトゥーが入った男。
彼は電話で逃げろと教えてくれたり、KKKに捉えられた女性を助けてくれたりと活躍しますが
そのほかのシーンに現れません。
これが一体誰なのか?ということですが
彼は「KKK」、白人至上主義団体のメンバーの一人です。
そのほかのシーンでも、KKKメンバーの会合に参加している様子が写っています。
しかし、エスカレートしていくKKKの行いに狼狽える様子も写っており、その様子から「KKKの行いに対して疑問を持っている」ということがわかります。
名前も出ないキャラクターではありますが、重要な役割を持ったキャラクターですね。
まとめ
今回は1996年公開の映画「評決のとき」をレビューしまシタ。
最終弁論シーンは、これまで見てきた映画のクライマックスでも、最高級のクオリティでした。
2時間半の法廷ものということですが、全く退屈せず見れました。
コメント
この映画が、観たものに対して最後に突きつけているものは何か?
主人公の我が身の事として考えろという感動的な最終弁論を聞いて、陪審員達のようにその瞬間の感情に支配されて無罪に納得してしまう当時の多数のアメリカ人に警鐘を鳴らしているのだと思います。
法の元の平等とは何か?それが遂行されない限り差別も無くならないと、映画を観てから暫く経って冷静に考えれば無罪判決はおかしいと気付くようにしているのではないでしょうか。
そういう意味でも主演の最終弁論の演技に全てがかかった映画と言えますね。
そして当時の観客の多くが無罪に納得してしまったのだから彼の演技力も素晴らしいといえます。
みはしくさん、コメントいただきありがとうございます。
おっしゃる通りですね。陪審員制度は事実や真実よりも「共感」「同情」などの非論理的な主張も強く影響しますから、「平等」とは何なのか。
それを強く訴えかけるないようになっていると思います。
思慮深いコメント、感謝いたします!