資本主義と男性性、新自我の誕生と統合
今回は1999年公開のスリラー・ヒューマン映画「ファイト・クラブ」のレビューと考察デス。
筆者評価は★4.4。
主演:ブラッド・ピット/エドワード・ノートン
監督:デヴィッド・フィンチャー
主演のブラッドピットとエドワード・ノートンの圧倒的演技力、脚本・映像力に富みまくった良作でした。
ただ、これは嫌いな人は相当嫌いだろうなという印象。
とはいえ、こういった極端なまでの賛否両論が生まれる作品こそが良作なところもあります。
波風ひとつ立たず、みんながおもしろーいという映画(○滅の刃みたいな)こそ、この「ファイト・クラブ」で描かれている消費社会における均一化・奴隷化と言えるでしょう。
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ざっくりあらすじ(ネタバレ)
エリート会社員ながら、不眠症に苦しむ「僕」。医者に相談したところ、「睾丸がん患者のセラピーにでも行ってこい。あれこそ本当の苦痛だよ」と言われます。
セラピーでは誰もが深い悲しみに打ちひしがれており、お互いの話を聞いていました。「僕」は睾丸ガンではないのに参加し、セラピー内で泣くことによって、不眠症を改善していきました。その他のさまざまなセラピーにも参加。
しかしそこに同じようなことをしている女性「マーラ」を発見。彼女が邪魔で泣けなくなってしまった「僕」は、別の日に来てくれとお願いします。これにてまた泣けるように。
飛行機に乗っていると、隣の席にタイラーという男が座ります。
この男と少し世間話をすませ別れたのち、家に帰ると、「僕」の家が火事になっていました。
爆発があったようです。
住むところがない「僕」は、連絡先を交換したタイラーに電話をかけます。
家に泊めてやるというタイラー。「その代わり、俺を思い切り殴ってくれ」といいます。何が何だかわかりませんが、殴ります。するとタイラーは殴り返してきます。ここから殴り合いに。
殴り合いに喜びを感じた「僕」はまたやろう。と言います。
タイラーとの共同生活・路上での殴り合いの中で、徐々に殴り合い仲間が増えてきます。
タイラーと「僕」はこの殴り合いを組織化。「ファイト・クラブ」を設立します。
段々ファイトクラブはエスカレート。犯罪組織にさえなっていきます。
「僕」はタイラーを止めますが、もう止まりません。ある日忽然と姿を消したタイラー。これを追うため、海外にまで足を伸ばしますが、何かおかしい。
「タイラーは?」と聞くと「あなたですよね」と。段々と気がつき始めます。
するとタイラーが現れ、真実を告げられます。「俺はお前が作り出したもう一つの人格だ」と。
タイラーは「僕」と同一人物だったのです。完全なる2重人格です。
タイラーは、「僕」がマーラに思いを寄せていることを知っていました。知り過ぎているマーラを排除することでビル爆破テロ計画を完成させようとするタイラー。
「僕」はそれを阻止するため、自身の口に銃を咥えます。
引き金を引きます。タイラーは死亡。「僕」は頬をぶち抜かれますが、生き残ります。
そこへ現れたマーラと手を繋ぎ、窓の外で爆破されていくビル群を見て、映画は終了です。
消費社会の奴隷である「僕」
本作の主人公には、名前がありません。正確には、「タイラー・ダーデン」ですが、映画を通して名前が出てこないので、「僕」としています。
「僕」は、エリート会社員。お金には困っていない様子です。
カタログを見ては、北欧家具を揃えます。
もう一つの人格である「タイラー」の家は、濁った水しか出ない、ボッロボロの家。おしゃれや洗練という言葉とはかけ離れた家です。
「タイラー」は「僕」が潜在的に作り出した「憧れ」の人格。
タイラーのルックスや生き方は「僕」の憧れそのものな訳ですから、この超必要最低限で何もないボロボロの家こそ、「僕」の望んでいるものなわけです。
これは、「消費社会の奴隷」から脱却したいという「僕」の望みです。
奴隷のように働かされ、必要ないものの広告を打たれ、欲しくなるように仕向けられ、消費させられる。
個人の存在そのものは空虚なものとなり、周辺に存在する「モノ」が指標となる…。
「僕」はそんな消費社会に嫌気がさしていたのです。
殴り合いと男性性、存在の確認
映画に登場する、被支配階級の男性たち(ガソスタ店員・レストラン店員・サラリーマンら)はなぜ殴り合うのでしょうか。
なぜ、ガンによって睾丸を取ったという男性は、殴り合うのでしょうか。
ん〜ストレス発散したいカラ?
もちろん、それもあるでしょう。「気を使い、へこへこする日常」から「人をボコボコにする非日常」へと向かう場になっていたことは確かです。
しかし、本作でキーとなるのは次の2点。
- 男性性の獲得
- 存在の確認
睾丸を取った男性はセラピーで、「俺はまだ男なんだ…。」と泣いていました。
そんな彼が、意気揚々と「いい場所を見つけた!」とファイトクラブに来ていた様子から、
ファイトクラブは「男」を確認させる場であることがわかります。
(ちなみにこれは、男性はこう、女性はこうという持論を展開しているのではなく、あくまで映画の解釈です)
おそらく、ファイトクラブに対して否定的な意見が多いとするとここが多いのではないかと思います。
殴り合いの友情こそ男!みたいな様子が、受け入れられないという人も多いかもしれません。
かくいう筆者である僕も、男はこう女はこう見たいな論説は嫌いです。
そんな僕も、この映画に関しては全くノーストレスで見れました。
殴り合いの中で湧き上がる本能のようなものを男性性と考え、それによって自分が男性であることを自覚する(それしか方法がない男性)。客観的に見るだけなら、ノーストレスで見れます。
2点目は存在の確認。
アントニオ猪木の「闘魂注入」に近い考え方です。
客観的に行為を見ると、「他者にわざと殴られる」というこの闘魂注入は、全く道理があっていない行動。
しかしこれまで何人がビンタされてきたでしょうか。
一定数の人には、他者に殴られることで「生」を実感する。という作用が存在しています。
ファイトクラブは、その過激版であると考えてください。
日中仕事をしているときは、自分が生きているのか死んでいるのかもわからない、空虚な存在。透明人間。
夜、1vs1で相手と向き合い、相手に殴られ、相手を殴る。自分の汗や血の匂いを感じます。痛みを感じます。この瞬間、透明だった存在に色が注がれていくのです。
ファイトクラブは、均一で無機質だった存在を、有機的にしてくれるシステムなのです。
ラスト、なぜ「僕」は生きている?
本作で最も謎と考察を呼んでいるのは、ラストの「僕」の自害シーン。
自分のもう一つの人格である「タイラー」を止めるため、銃を口にくわえ、引き金を引きます。
するとタイラーは後頭部が弾け、死んでしまいます。
しかし、「僕」は生きているのです。そしてそこへマーラが到着し、手を繋ぎます。
なんでタイラーだけ死んで、「僕」は生きてルノ?
そもそも口に銃咥えて撃ってるのになんで生きてルノ?
これに関しての僕の解釈を記述します。
■なぜタイラーは死んだのか
タイラーとの最後のやりとりで、「僕」が銃を口に咥えたのを見て、タイラーは「フン面白い」とたかを括っています。
これは、タイラーは「僕」が引き金を引かないだろうと考えていたためとわかります。そこまでの覚悟が、こいつにあるはずはない。と。
しかしそれは間違いでした。「僕」は引き金を引きます。
この時点で「タイラー」は死んでいるのです。
つまり、「引き金を引くか、引かないか」が重要なのであり、引くことがタイラーの死を意味します。
タイラーが死んだのは、「僕」が引き金を引く覚悟を見せたからです。ここで、「僕」の精神はタイラーを打ち破ったのです。
■なぜ「僕」は生きているのか
では、なぜ「僕」は生きているのでしょうか。
これはシンプル。銃口が横を向いていたので、致命傷にならず、頬がぐちゃぐちゃになったからです。
「僕」本人は、しっかり撃ったつもりだったのでしょうが、銃の扱いなどしたことがない彼は、しっかりと銃口を脳に向けていませんでした。
そのため、弾丸は頬を貫きました。
なので、「僕」は生きているのです。
つまり、引き金を引く覚悟によってタイラーは死んだが、実際に弾丸は致命傷にはならず「僕」は生き残った。ということです。
タイラーはいなくなったのか?
みんな大好きタイラーは、もう「僕」の中にいないのでしょうか?
映画としては、最後脳をぶちまけて死んでいきましたから、いないことになるでしょう。
しかし、映画前半でタイラーについての説明で「映画館のフィルム編集の仕事中、客が知覚できない一瞬、ポルノ映像を入れ込むのが好きな男」とされています。
実は映画のラスト、「僕」がマーラと手を繋ぐシーンで、一瞬だけ「男性器」が出てきます。
そして映画は終わります。
これは、「タイラーはまだ「僕」の中に生きている」ということの暗示です。
「僕」はタイラーと統合され、「僕+」とでも言うべき人格になったと言うことです。
一度死んで、ここからまた生き始める。そしてこの映画は終わっていくのです。
まとめ
今回は、「ファイト・クラブ」のレビューでシタ。
公開から20年以上経ちますが、色褪せない、現代社会へのメッセージが強烈です。
こういった「実は2重人格だった」系の、どんでん返し系というか、伏線系というかの映画、僕は途中で気づくタイプなはずなんです。
しかしこのファイトクラブは全く気がつきませんでした。超自然に張り巡らされていた伏線に全く気がつきませんでした。
しかもサブリミナル効果を実践されたのも初めてでした。
2022年に見ているのに、最先端の感覚を持たせてくれる本作は、紛れもない神作です。
コメント
仰る通り、消費社会における不安と葛藤、そして身体回帰による暴力性の発露などを鋭く抉り出していて、傑作だと思いました。
アメリカ同時多発テロの時、この映画に影響された消費社会の犠牲者による犯行と疑われたのも頷けます。このような時代を敏感に捉えた映画が、また出てくることを願うばかりです。