まさかの超SF、相変わらずの「難しさ」
今回はジョーダン・ピール監督の新作「NOPE」をレビューしマス。
筆者評価:現段階では★3.4(正直測定不能)
監督:ジョーダン・ピール
主演:ダニエル・カルーヤ
前情報一切なしで、予告も見ずに見ました。前情報なしで見たのは良かったかもしれません。
見ている最中・見終えた後の感想は「ナンジャコレ」。
よく見る構成というかストーリーの展開なんですが、なぜか見たことのない映画って感じがする。
そしてやはり「メッセージ性」は高いとは感じる。
2022年最大の謎映画となりそうな「NOPE」を、考えていきます。
世間では「賛否両論」らしいですが、議論が巻き起こらない映画なんかより全然いい傾向です。
3つの軸で
他の映画評論サイトや、Youtube等の考察動画を見ていると、この映画「NOPE」を
「視線の映画だ!」と言っていたり「映画業界や芸能業界の腐敗を描いている!」というふうに言っていたりします。
(一応、競合調査ということでこの辺りをチェックしています。僕のサイトに足を運んでくれているあなた。本当にありがとうございます。)
しかし僕は、この映画は複数の対立軸・主張が混在しており、それが複雑に絡んでいるように思えて仕方ありません。
そこで本記事では、本作を大きく以下の3つの軸に分解して考えてみます。
①テクノロジーへの懐疑
②支配・開拓への反抗
③視る・視られる・視られない
①テクノロジーへの懐疑
ストーリー進行にも直接関わってくるのは、テクノロジーへの懐疑であると考えられます。
円盤型生物である「Gジャン」は、捕食前に電気系統を停止させます。
正直厳密に言えば、脳から筋肉への信号を出す際の電気系統は止まらないんか?と突っ込みたくなったところではありますが、基本的に電飾やスマホ、カメラなどの電気駆動であるあらゆるものが止まってしまう。という設定です。
電気が使えない、ということは人間の文明レベルが「火」だけだった頃に強制的に戻されるということです。
つまり、1850年〜1890年ごろの、「電気発明直前」のアメリカになるということ。いわゆる西部開拓時代です。
この頃はカウボーイが走り回り、リンカーンが奴隷解放宣言をしたりという時期です。
黒人である主人公が、馬に乗って走り回る。偶然ではないでしょう。
最新機器であるIMAXカメラを手回し式にして撮影してるところを見ても、映画黎明期の「手回しカメラ」に回帰しています。
さらには、最終的にGジャンを写真に収めたのは、西部開拓時代から存在していた「ポラロイドカメラ」。
常に新しい機能・技術を欲し、信仰する現代社会に対して「本当にそれが良いことなのか?」と投げかけているように感じられます。
②支配・開拓への反抗
本作の多くの関係は、「支配しようとするもの」と「支配に反抗するもの」に当てはめることができます。
「牧場地を自分のナワバリと考え、略奪しようとするGジャン」と「父から受け継いだ牧場地で馬の世話をし続ける兄妹」。
黒人文化を代表するソウルミュージックを大音量でかけていると、Gジャンがやってきて停電させる。ここにも文化「支配」の暗喩があるように思います。
「ゴーディを見せ物として扱い、利用しようとするテレビ」と「動物としての野生・暴力を見せて事件を起こすゴーディ」。
白人たちがモンキーをイジってバカにするという、典型的な「差別」へのメッセージです。
モンキーといえば、黄色人種への差別用語としても有名です。
ゴーディが唯一、アジア人のジュープを襲わずに友人になろうとした理由も説明ができます。
そのほかにも「OJの牧場から馬を買い続けるジュープのテーマパーク」と「お金のため、仕方なく馬を売るしかないが、いつかは買い戻そうとしているOJ」もそうです。
ただ、一つ難しいのは「Gジャンとの共生を試みるジュープ」と「あくまでも動物としての本能を優先するGジャン」の関係です。
これに関しては後述します。
③視る・視られる・視られない
視る・視られる・視られないという視線の交差も軸の一つと言えます。
これはGジャンに襲われないためには「視てはいけない」。この時、Gジャンはこちらを「視ている」。
猿のゴーディーも「視られる」ことが耐えられなかった。
ドキュメンタリー監督のホルストは、全世界の人々に「視られる」という奇跡を信じました。
妹のエメラルドは、女子ということを理由に父親から「視てもらえなかった」。
このように、あらゆる視線の交差が直接ストーリーのの大切な存在として浮上しています。
あのアジア少年と猿、そしてGジャン
先述した通り、Gジャンとジュープの間の関係は、他の登場人物と違った独特なものとなっていました。
この原因は、ジュープが少年だった頃の体験によります。
彼は子役として、アメリカのホームドラマに出演していました。
ホームドラマは、「フルハウス」で知られるようなもので、コメディタッチのもの。
アメリカにおける「笑い」の文化は、ウィル・スミスの平手打ち事件から見てもわかるように、「皮肉やいじり」が元になることが多く存在しています。
そんな「攻撃的な視線」に耐えられなくなった猿、ゴーディは事件を起こしたわけですが
ゴーディーは唯一、アジア人の子役、ジュープには友好な態度を取りました。
これは、ジュープがゴーディーと同じ「被支配者」だったからです。
ジュープは、「子供」「黄色人種」という2重の被支配者要素を持っています。
黄色人種は、蔑称で「イエローモンキー」と言われます。
黄色人種=猿という差別の歴史から見ても、ゴーディーとジュープの間には繋がるものがあります。
そしてまだ「自分の意志」を確立できていない、子供なのにも関わらず、大人たちに良いようにして使われています。その証拠として、子役として使えなくなってからは、表舞台から退いています。
そんなジュープの目の前で、彼は射殺されました。
この事は、ジュープの中に、強烈なトラウマを残します。
それは、「被支配者が支配者に牙を剥くとこうなる」というもの。
これによって、ジュープは自分の地位が「支配者」になれる場所を探してきました。
行き着いたのが、ハリウッドの離れの荒野で、近くには貧困状態の黒人の牧場があるあの地。
妻には白人をもらい、自身を「支配者階級」まで持ってくることに成功しました。
しかし、そこへ新たな支配者「Gジャン」がやってくるのです。
彼は、「支配者に対して反抗をすると殺される」ことを知っているので、反抗はしません。
加えて、支配者Gジャンは自分が目指すべき存在でもあるわけです。
そこで彼は、Gジャンに対して「懐柔・共生」を選びます。
それは馬を供物とし、生存を許可してもらう方法。そしてその「奇跡」を大衆に見せて地位を確保する方法でした。
これはまさしく「宗教」の誕生です。
神に対する「生贄」と神と会話する「司祭」。彼はこれを目指しました。
支配者はいつも
では、ジュープはなぜ、Gジャンに食べられてしまったのか。
その答えは、「支配者は2人存在し得ない」というメッセージです。
学校で「いじめっ子といじめられっ子」が存在していたとき
「いじめっ子」の中にもまたヒエラルキーが存在しています。
いじめっ子といじめられっ子の差はかなり紙一重であり、肉体的な特徴や、力の弱さなどの物理的要因によってその「一線」を画しているのみです。
いじめっ子もまた、それぞれが支配-被支配の集合体であり、並列関係にある事はありません。
これは社会や政治、世界の体制にも言うことができます。
おそらく監督は、この「支配の連鎖とその不可逆性」を訴えているのだと思います。
まとめ
今回は「NOPE」をレビューしまシタ。
賛否両論呼んでいるようで、確かに僕も何点か気にならない点も散見されたのですが、しっかり考えて観る映画としては、とても良いと思います。
ただ、その力を持てるだけの基礎力が必要です。
①黒人差別の歴史や、黒人文化に教養がある
②映画自体について教養がある
③「意味」をよく考える力がある
この辺りを必須とする映画だったかと思います。
この記事を見て、少しでも面白いと思っていただければ幸いです。
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