遺伝が決定するのか、意志が決定するのか
今回は1997年公開のSF映画「ガタカ」を解説しマス
KOX評価:★4.0
出演:イーサン・ホーク/ユマ・サーマン/ジュード・ロウ など
監督:アンドリュー・ニコル
未来社会における遺伝子による格差をテーマに描かれた本作。
本作は、未来の科学技術が人間の遺伝子を操作する時代に生まれた「デゲネレート」と呼ばれる人々の苦悩と葛藤を描きながら、人間の可能性と人間性について考察しています。
今回は「ガタカ」の魅力を紹介しつつ、作品が抱えるメッセージについて探求していきます。
どんな映画?
- 遺伝子操作が可能になった未来を舞台とした、社会派SF映画
- グロ、エロは特にないので安心
- 遺伝という決定的なものと、意志という流動的なものがテーマ
- 2023年現在では、もはや未来の話ではない。。
緻密な世界観と美術デザイン
「ガタカ」は未来社会を舞台にしており、その緻密な世界観と美術デザインが観客を圧倒します。
未来的な建造物や技術、ファッションなどが描かれ、映像美と細部へのこだわりが作品全体の雰囲気を一層引き立てています。
イーサン・ホーク、ユマ・サーマン、ジュード・ロウの3人の「未来感」も確実に映画全体に影響していると思います。笑
しかもその「未来感」が、90年代の人々の考える、「人間性が損なわれた憂い深い未来のなかで」という雰囲気を持っている点にも注目したいです。
科学と倫理
作品の舞台となる未来社会では、遺伝子操作技術によって人間の遺伝子を操作し、優れた遺伝子を持つ「ヴァリッド」と呼ばれる人々が生まれています。
一方、「デゲネレート」と呼ばれる不完全な遺伝子を持つ人々は社会的に差別され、遺伝子による格差が広がっています。
この設定で科学技術の進化と倫理的な問題を浮き彫りにし、人間の遺伝子操作がどのような倫理的なジレンマを生み出すかを問いかけています。
ハンディキャップがなく生まれていくること、つまり五体満足で生まれることはもちろん幸せなことではあります。
しかしそれが完全に管理され、社会の中で晒され続け、社会的地位に影響がある状態は「人」にとってはいいことなのか?「ヒト」を存続させるためにはいいことなのか?
そういった問題を投げかけてくる設定となっています。
ウソ、、自分
主人公ヴィンセントは「デゲネレート」として生まれながら、自らの夢を追い求めるために「ヴァリッド」として偽装することを決意します。
ヴィンセントの強い意志は、社会の制約を超えて自分の可能性を信じることの重要性を示しています。
このあたりは、90年的な考え方かつ、日本で言うところの「スポ根」モノのような「努力こそが美徳」とする考え方も十分に感じられます。
筆者はそういった論調は嫌いですが、本作では前提としてしっかり「生まれ持った体を理由に虐げられること」への憂いが描かれているので、しっかりと腑に落ちます。
また、ポイントなのは「ヴァリッドとして偽装」しているということ。
社会の中に存在している以上、その社会が設定した規格を使用しないといけない事が表されています。
「誰もが平等に」途方もない理想
「ガタカ」は差別や偏見をテーマにしていますが、当然その根底には誰もが平等に尊重される社会を目指すメッセージが込められています。
遺伝子による格差は作品の象徴的な要素であり、社会に存在するあらゆる差別を象徴しています。
しかし、差別は本当の意味でなくなる日は、来ないでしょう。
それが来る日は、全人類が全く均一な容姿、思考、能力を持った日だけです。
この、「到達不可能な途方もない目標に向かって進むこと」。その一助として、ガタカが名作として今も語り継がれることが重要なんだと思います。
医者が見逃してくれたのはなぜ?
遺伝子の検査をし、都度選別を行うこの世界。身分確認のために採血や尿検査を行います。
幾度と登場するこの医者をヴィンセントは欺き、ヴァリッドとして生活していたわけですが、映画ラストで実はこの医者はヴィンセントが「デゲネレート」であることを知っていた事が明かされます。
医者はなぜ彼を見逃していたのか。
唯一ヴィンセントの正体を知っていた彼は、すなわち誰よりもヴィンセントの努力を知っていたことになります。
ヴィンセントの行動の中に、確かな意志と決意を感じたのではないでしょうか。
そして日々選別をする立場として、医師には「あるべき世界の姿」が見えていたのです。
まとめ
今回は1997年公開のSF「ガタカ」をレビューしまシタ。
もし自分が、生まれながらに周りよりも劣っていて、社会的に地位が低い存在で、人生の選択肢が狭かったらどうなるでしょうか。
主人公ヴィンセントのように、社会の中で社会に立ち向かい続ける選択肢をとる人は、どのくらいいるでしょうか。
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